このページは、より私が提案する事の理解を深める為のページです。
具体的には、私たちの状況の説明となぜ洞察力なのか?、その他7つの疑問に答えています。
7つの疑問とは、自ら物事の論理を解き明かす効果、なぜ私たちの習慣では、洞察力が身につかないのか? 洞察力を身につける為にはなぜ、自ら物事の論理を解き明かす事を習慣化する必要があるのか? なぜ私たち日本人は、欧米と比較して知恵や発想力がないのか? 洞察力を培う為にはなぜ、論理的思考が必要になのか? なぜ洞察ある事の良し悪しを、私たち日本は判別判断できないのか? なぜ私たちの優秀な人達でも、私たち日本の習慣の弱点が洞察力にある事を気づけないのか? の7つです。
疑問に思ったら読んでみてください。理解が進むと思います。
ここで1つ試みをしたいと思います。
以下に説明する文章を読んで、御社(あなた)は、上記した疑問を持つでしょうか。
洞察力を培う最初は、物事に疑問を持つ事です。
疑問を持ち続ければ問題意識が芽生え、そのうち問題の原因を解明できます。
これが洞察力を身につける基本です。
では説明文を書いてみます。
私たちの習慣は、目に観えない物事の裏側などを、追求する様に考える事で、自ら物事の論理を解き明かす事が殆ど行わない習慣です。
この習慣では、物事の優れた判別判断発想の基礎として働く洞察力は育たない身につけられません。
その為私たちが行っているビジネスでの判別判断発想が、洞察力を身につけている欧米の様にできない為、欧米の様な生産性にする事も、具体的にはモジュラー型製品法でインテルの様に、プラットフォームリーダーにも、価格決定力ある事業もできないので、生産性を欧米の様に高くできないのです。
考えてみてください。
多分この説明をサーと読んで分かったで終わりだと思います。
私たちの習慣が、疑問を持つ事を、考える事をあまりしない習慣である事に気づいて欲しいのです。
私たち日本には、欧米と比較して生産性が低い事や格差社会が多く残るなどの問題が多々あります。
生産性が30年以上低迷しているのに根本原因も分からない為、欧米の様な高い生産性にできないジレンマがあります。
その為国力の低下まで起き始めて、人々のやる気も衰え始めています。
私たちは、これらの問題を自ら解決できないのです。
なぜ、国力の低下まで起き始めているのに、何の手も打てないのでしょうか。
私たち日本人に能力がないからでしょうか。
私はそうは思いません。
なぜなら、過去の日本を見て頂ければお分かり頂けると思いますが、世界を驚かせる様な高度成長を出来たり、米国以外で日本ほどノーベル賞を取ったりできる国は殆どないと思います。
能力がないのでは、この様な事はできないと思います。
私はこれらが起きつ原因は、私たちが何の疑いもなく行っている習慣にあると思っています。
私たちが日常行っている習慣が、グローバル市場の変化に対応できなくなった事が原因と考えています。
原因が私たちの習慣にあるのであれば、習慣を変えれば、私たち日本でもグローバル市場に対応できる訳です。
能力であれば、天性のものなので、あきらめる以外ないのです。
私たちの習慣では私たちは、自ら自国の問題を解決できない習慣である事に気づけないのです。
なぜ、気づけないかには理由があるのですが、理由を説明しても理解して貰えないくらい、私たちの習慣と市場が求めるものの間にずれが生じてきているのです。
それでも説明してみると、私たちはグローバルビジネスを行う時に、何が重要で何が重要でないかや、何が必要で何が必要ないかを、欧米の様に上手く取捨選択ができない事が、生産性が低くなる事やモジュラー型製品製造法で惨敗している原因です。
なぜ上手く取捨選択が出来ないかが問題になりますが、この原因が私たちが何の疑いもなく行っている習慣にある事と、上手く行う為に必要な洞察ある判別判断発想は、洞察力を身につけないとできない為、私たち洞察力を身につけられない人達には、分からない、理解できないのです。
私が解明したこれらの問題のキーワードは洞察力で、私たちの習慣はこの洞察力を、意識をする事も身につける事も出来ない習慣である為、欧米が行っている洞察ある判別判断発想を、洞察ある優れた判別判断や優れたアイデアの結果である事を見抜けないのです。
その為、私たちは何が足りないかも分からないし、原因も分からなくなり、何の手も打てなくなり、私たちの習慣を続ける以外方法はなくなってしまうのです。
このHPは、この問題を解決しようと取り組んでいるHPです。
それでは本題に入ります。
私たち日本と欧米の生産性の差やIT技術の使い方の差等は、ビジネスで行っている判別や判断や発想が、欧米が洞察ある優れた判別判断発想でビジネス等を行っているのに対して、私たちの習慣では優れた判別判断や発想の基礎として働く洞察力が身につきませんので、私たちは賢く優れた判別判断や発想ができないのです。
その為欧米が優れた判別判断発想で生産活動を行っている事も私たちは理解できない分からない為、私たちの感覚からすると知らず知らずのうちに生産性等の差が生まれてしまうのです。
要するに、欧米が高く日本が低い生産性等の差は、日々ビジネスで行っている判別判断発想力の差で生まれてしまう事も気づけないのです。
私たち日本の生産性が長期低迷に陥ったり、格差社会が多く残ったり、もっと身近な所では、製品製造法の今主流になってきているモジュラー型製品製造法でプラットフォームリーダーに成れなかったりする理由は、欧米の様に生産活動で優れた結果を出す為に必要な、優れた賢いビジネス上の判別や判断や発想ができない事が原因です。
私たちの物事の判別判断や発想が、欧米の様に本質的で物事を見極めた判別判断や発想ができない事が、生産性を始めとした色々な問題が起きる原因です。
なぜ、私たち自身でこの原因に気づけないかと言うと、優れた判別判断や発想の基礎として働く洞察力は、私たちの習慣では身につかない為私たちは洞察力が身についていません。
その為欧米か行っている洞察ある企業経営や社会システムづくりを洞察ある判別判断や発想とは見抜けない、洞察できない為、欧米が行っている優れた洞察ある判別判断や発想の良し悪しを私たちは判別判断できないのです。
その事が理由で私たちは、洞察力を意識する事もないし、洞察力が経済活動に大きく影響している事も気づけないのです。
なぜ、洞察ある事を洞察力のない人は優れた判別判断発想である事が分からないかと言うと、洞察ある事を分かる様にする為には、なぜ?を何回も繰り返さなければ得られない様な深い所にある論理や原因等を自ら解き明かし理解していないと、洞察ある事は分かりませんし理解できません。
私たちは追求する様に考える事を行いませんので、深い層にある論理を解き明かせません。
その為表層の論理しか理解できないか曖昧な論理しか理解できないので判別判断発想が曖昧になり、真似はできても優れた結果は出せないのです。
要するに、私たちは、物事の論理を自ら解き明かし、結論と根拠を明確にして記憶する努力をしていない為洞察ある事を見抜けないので優れた結果もだせないのです。
洞察ある事は、自ら洞察力を身につけないと、良し悪しを判断できない所に、私たちが欧米の真似も良し悪しの判断もできなくなってしまうのです。
良し悪しの判断もできないのでは、そのままになり、見過ごす以外対処法はないのです。
なぜ、私たちは目的に対して何が必要で何が必要ないかの優れた判断判別発想ができない、又は欧米の様な結果が出せない判別判断や発想しかできないかと言うと、私たちの習慣では、優れた賢い判別判断や発想の基礎として働く洞察力が身につかない習慣だからです。
優れた賢い判別や判断や発想に必要な洞察力は、どうすれば身につくかを分かれば、欧米と日本の習慣の違いから、欧米では洞察力が身につき、日本では洞察力が身につかない事が分かるので説明します。
欧米と日本の洞察力が身につくか否かの違いがどこから生まれるかです。
私たちの習慣は、物事の裏側など目に観えない物事を、追求する様に考える、自ら物事の論理を解き明かす事を殆ど行わない習慣です。
なぜこの習慣になってしまったかは、はっきりした原因は分かっていませんが、歴史的原因がある事は想像できます。
一方欧米では、質問が多い事からも、自ら物事の論理を解き明かす事を行っている事が分かります。
洞察力を身につける為には、この自ら物事の論理を解き明かし、論理的思考の結論と根拠を結びつけて記憶する事を習慣化し、多くの物事の結論と根拠を結びつけた知識が必要になるからです。
表面的な事だけでなく、物事の内情(関係性や構造など)を知っていた方が、色々な物事の判別判断発想がよくできる、と言う事です。
洞察力が身につくか否かは、日本では行っていなく、欧米では行っている、物事の論理を自ら解明しているか否かとその行為を習慣化しているか否かの差で生まれてくるのです。
自ら物事の論理を解き明かしているとなぜ、洞察力が身につき優れた賢い判別判断発想ができるかと言うと、自ら物事の論理を解き明かすとは、表面上に見えている事がなぜ起きるのか?などを考える事ですから、論理的思考の結論と根拠に分けて、根拠の論理を、物事を注意深く観る事や観察する事で気づきを得て、根拠を明らかにする行為になる訳です。
要するに、論理的思考の結論と根拠を結びつけて記憶考えられる様になるのです。
一方私たちは、自ら物事の論理を解き明かす事を行わないのですから、表面上に見えている事と得た知識で物事を判別判断発想する訳です。
これでは結論は分かっても、根拠を追求して考えない為、論理的思考になっていないのです。
結論と根拠をセットにして記憶し、その記憶を基に物事を判別判断発想する論理的思考になっていないので、優れた判別判断発想ができないのです。
論理的思考がなぜビジネスで必要な考え方なのかを私たちは考えないのです。
洞察力は論理的思考の習慣化が生み出す結果ですから、物事の根拠が分かっていて判別判断発想するのと、日本の様に分かっていなくて又は曖昧で物事を判別判断発想する事の違いです。
根拠が分かっていて判別判断発想した方が、優れた賢い判別や判断や発想になる事はご理解頂けると思います。
物事を判別判断発想する場合、表面上で判断するのと内情(目に観えていない構造や関係性等)を知っていて判別判断するのとでは、判別判断発想の正確性が違ってくる事はお分かり頂けると思います。
又私たちの様に洞察力が身についていない状況では、欧米が洞察ある事業を行っても私たちは、良し悪しも判断できないのですから、最初から競争にも参加させてもらえない状況を生み出す事を私は危惧しているのです。
このまま行くと、欧米にも見放されるか、いい様に利用されるだけになってしまいかねないのです。
表面上良さそうな言い方をしていれば、内情が分かっていないのですから、そのまま通ってしまう様な事が起きる可能性があるのです。
このHPは、生産性に深く関係する洞察力がどう言うものかを、私が徐々に解明して行き出来上がったHPです。
今までの説明の前段階で解明した説明を行っています。
もっと理解を深めて行動に移して頂く為役立つので、次のページ へお進み下さい。
自ら分からない物事の論理を解き明かす為には、物事の裏側など目に観ない物事の論理(メカニズムや関係性など)を解明する為には、常に問題意識を持って日常起きている事や新たに入る情報や知識などを見る様になるので、自ら気づく事が多くなります。
この気づきから物事の論理を解明しているのです。
カラーバス効果と言うものをご存知でしょうか。
問題意識を持って世の中を見ていれば、普段観えないものが観えてくる気づく効果です。
この行為を日常行っていると、常に問題意識をもって日常起きている事や新たに入る情報や知識などを、観察的視点で観る、問題意識を持って見る様になので、気づきが多くなる訳です。
ある程度論理を自ら解き明かす事を続けていると、過去の論理解明から根拠の確かな仮説が浮かぶ様になる為、見えているものがどんな論理なのかを仮説で観られる様になるので、気づいた事が確実になり早くなるのです。
考え出す仮説も、過去に解き明かした論理を基に考え出す為、根拠のある仮説になるので、確実性があり、早く解き明かせる様になるのです。
これらの行為は、日常起きている事や新たな情報や知識を得る事で気づける様になる為、私たちの習慣の様に自ら物事の論理を解き明かす事ない習慣とは違い、色々な物事の論理を解明する、すなわち論理的思考の根拠を自ら明らかにできる様になる為、これを続けて根拠のある物事の理解をある程度広く深くして行くと、洞察力がついてくるのです。
又物事の論理を解き明かす行為の始めはなぜ?どうして?と物事を追求する様に考える、物事の論理を探す行為であるので、自然に物事の論理の理解が広く深くなって行く為、洞察力が身についてくるのです。
論理的思考の目的は、理想に近づける考えを考え出す事ですから、自ら物事の論理を解き明かす時も、どうしたら理想に近づけられるかを意識して、物事の論理を解明する訳です。
その為、解明する物事も、どうしたら理想に近づけられるかの目的に合った解明の仕方で解き明かすと思います。
その為、自ら物事の論理を解き明かす事を習慣化していると、優れた判別判断発想の基礎として働く洞察力が身についてきて、優れた判別判断発想を通して、理想的な事を考え出せる様になるのです。
もし理想的な事を考え出せない場合は、悪知恵になって行くのです。
私たちの習慣はどう言う訳か、物事の裏側など目に観えない物事を追求する様に考える、物事の論理を自ら解き明かす事のない習慣です。
この習慣では、物事の裏側など目に観えない物事が、どうなっているかを理解できません。
そうすと、私たちは、目に観えている事と入手した知識で物事を判断する事になる訳です。
この物事の捉え方観方考え方では、どうしても根拠が曖昧になったり、物事の原因や関係性等が曖昧か分からない観方考え方しかできなくなります。
なぜなら、追求する様に考えて、自ら物事の論理を解き明かす事を行わないのでは、物事の根拠や原因、関係性等が分からないか曖昧になるからです。
根拠や原因、関係性等が曖昧か分からない知識で物事を判断していたのでは、確実な判断や賢い判断はできません。
洞察力とは知恵や発想力の基礎として働くもので、その内容は、優れた判別力、判断力、発想力が基礎になっています。
根拠や原因、関係性等が曖昧な知識で物事を判別判断や発想をしていたのでは、知恵や発想力は発揮できません。
物事の裏側などがどうなっているか、自ら物事の論理を、常日頃から解明していれば、物事の裏側まで、わずかな兆候などから論理的に考えていれば論理が分かります。
物事の裏側まで理解できると、その物事の根拠や原因、関係性等が分かってくるため、分からない私たちより優れた判別判断や発想ができる様になるのです。
なぜ、どうして?と言う問題意識、疑問を持ては、わずかな兆候から、その論理に気づける様になるので、自ら物事の論理を解き明かせる様になるのですが、私たちは自ら物事の論理を解き明かす事を殆ど行いません。
この習慣では、物事の裏側等がどうなっているかが理解できませんので、洞察力は身につかないのです。
洞察力を身につけるには、自ら物事の論理を解き明かす事を習慣化し、多くの物事を広く深く理解しないと身につかないのです。
この行為を私たちは行いませんので、洞察力が身につかないのです。
洞察力は優れた判別判断や発想の基礎として働くものです。
優れた物事の判断判別発想を行う為には、1つひとつ物事を、目的に対して的確に選び出す必要があります。
逆に言うと目的の為に何が必要か否かや役立つか否か等を見極められないと、的確な物事の取捨選択はできません。
洞察力が身につくと、より多くの物事から目的に合わせてより的確に取捨選択できる様になりますので、少ない物事の論理解明から取捨選択するより、多くの論理解明から取捨選択する方がより的確な取捨選択ができる訳です。
より多くの物事の論理を解き明かしていた方が、より的確な取捨選択ができる様になる訳です。
より多く物事の論理を解き明かす為には、論理的思考を習慣化する必要があるのです。
洞察力を身につける為には、この外に論理的思考の根拠を追求する必要があります。
なぜなら、洞察力は優れた判別判断発想の基礎として働くもので、根拠まで分かっていた方が、優れた判別判断発想になるからです。
私たちは、欧米と比較してビジネスで必要な知恵や発想力がありません。
なぜ、知恵や発想力がないのか、考えてみます。
発想力がない理由は、私たちの物事の捉え方考え方が、表面的である、上っ面で物事を判別判断発想しているからです。
例えば、論理的思考を結論と根拠に分けて考える考え方だとか、つじつまを合わせる様に考える事だ、だけでこの言葉を記憶し、なぜ結論と根拠に分けえ考える必要があるのか等は考えないのです。
その言葉の持っている深い所を考えないのです。
私たちは、言葉が表す表面的な所だけで記憶するのです。
なぜ、この記憶の仕方ではダメかと言うと、発想力を発揮する場合、よく言われているのですが、発想力とは、既存要素の新しい組み合わせで生まれる、と言われています。
この既存要素を浅く捉えた解釈で考えたのでは、優れたアイデアは出せないのです。
言葉が意味する内情(関係性や構造など)まで分かっていると、既存要素の捉え方が深くなるので、よいアイデアに繋がるのです。
同様な理由で、知恵も出せないのです。
論理的思考は、結論と根拠に分けて結びつけて物事を理解考える考え方です。
そうすると、○○が起きる原因は、××(原因や関係性、構造などの)の原因があるからだ、と言う様に物事を理解する事になります。
一方洞察力とは、見えている物事から本質を見抜く力であり、物事の優れた賢い結果を出せる判別や判断発想をできる基礎として働くものです。
論理的思考を普段から行っていると、多くの物事の結論と根拠を結びつけた記憶ができます。
この記憶したものから物事の判別や判断発想を行うと、洞察ある優れた判断判別発想ができるのです。
なぜなら、物事の判別判断発想を、根拠(原因や関係性、構造などで)を分かっていて判別判断発想ができるからです。
一方私たちの習慣は、優れた賢い判別判断発想にはならないのです。
なぜなら、私たちは、論理的思考の根拠を追求しない習慣の為、根拠が分かっていませんので根拠と結び付けて考えられません。
結論と根拠を結びつけて考えられないのでは、優れた賢い判別判断にはならないのです。
判別判断発想を行う時に、根拠から判別判断発想を行うのと、根拠がなくて判別判断発想を行うのでは、判別判断発想の精度が違ってきて、根拠が分かっている方が、優れた賢い判別判断発想になる事はご理解頂けるのではないでしょうか。
私たちの習慣は、この根拠が曖昧か分からないい為、物事の見極めや判断や発想が、根拠が曖昧なため、優れた賢い判別判断発想にならないのです。
根拠の曖昧な知識をいくら持っていても、優れた賢い判別判断発想はできないのです。
その為、優れた賢い判別判断発想の基礎として働く洞察力を培い、身につけるには、結論と根拠を結びつけた知識を基に考える、論理的思考は欠かせない考え方なのです。
私たちは習慣が影響して、洞察力を身につけている人は殆どいません。
私たちが洞察力を身につけていない為、私たちは、欧米で行っている洞察ある事を、洞察ある事なのか否かを判断できないのです。
その為、洞察ある良い事でも真似も参考にする事もできないのです。
なぜ、洞察ある事を洞察力のない人は判断できないのでしょうか?
洞察力とは、見えている物事から本質を見抜く力であり、物事の優れた賢い判別判断発想の基礎として働く力です。
洞察力のある人が、優れた賢い判別判断発想をできるのは、洞察ある事を見極め判断ができるので優れた結果を下せるのです。
物事の論理は階層構造でできています。
基礎の論理があって、その上の論理を解明する為には、基礎の論理が分かっていて初めて上の論理を解明できる訳です。
トヨタのなぜ?の5回繰り返しは、目に観える様な表面的な事がなぜ起きるのかを追求し、その原因等を深堀し、最終的には本質的な原因にたどり着く為に行っている訳です。
洞察ある事は、何回もなぜ?を行って深堀して得た論理を言葉にしたものを使わなければ説明できない事が多いです。
なぜ、誰でも知っている言葉で説明できないかと言うと、洞察ある事は、多くの意味を含んだ言葉でなければ説明できないからです。
洞察ある事を私たちが分かる言葉で説明すると、かえって色々な補助説明が必要になり、複雑になり分かり難くなるからです。
難解な事を説明する時に、専門用語を多く使うのはその為です。
私が使う言葉1つひとつに他の意味が含まれている為分かり難いのです。
私たちは、このなぜ?を繰り返す事を殆ど行いませんので、私が使う言葉の意味を私たちの習慣的な捉え方(ネットで説明している様な)で解釈しようとする為、私の説明の意図を掴めないのです。
私たちの習慣は、具体的な事を求める傾向が強い為、色々な意味を含んだ言葉を嫌うので、私が使う言葉の意味を浅く捉える為理解でき難いのです。
私が使う普通の言葉を使っていても、その意味は奥深い意味を持った事を言いたいのです。
洞察ある事は、何回もなぜ?を追求して考えて、分かった論理を使わなければ理解できない為、私たちはこのなぜ?を行いませんので、洞察ある事の良し悪しを判断できないのです。
私たちはなぜ?なぜ?と物事を追求する様に考える事を殆ど行いません。
自ら物事の論理を解き明かす事を殆ど行いません。
そうすると、私たちが持っている知識は言葉が表す意味(ネット等で説明している)しか分からず、物事を理解している訳です。
私が使っている言葉は、もっと色々な意味を含んだ言葉で説明しています。
なぜ色々な意味を含んだ言葉を使うかは、色々な意味を含んだ言葉を使わなければ、私が意図とする事が伝わらないと思うからです。
洞察ある判別判断発想は、非常に多くの物事の根拠などを考慮した含めた判別判断発想の事です。
言葉では洞察ある判別判断発想と表現していますが、意図はなぜ洞察ある事が優れているかを含んでいます。
言葉1つにとってもこの様な解釈になるので、私が色々な説明の仕方をしているのも、少しでも理解が進むことを期待しているからです。
私たちは、追求する様に考える事を殆ど行いません。
自ら物事の論理を多くの気づきから解き明かす事を殆ど行わないのでは、なぜ?なぜ?と深堀する事はないと思います。
洞察力に気づく為には、階層が6から7層以上あるのではないでしょうか。
第1層は、現実にある物起きている事に疑問を持つ事です。
例えば、なぜ、私たちは、欧米と比較して生産性が低かったり、男女格差が大きかったりする事が多くあるのか等です。
外国と比較する様な事をしているか否か(視野がどこまで向いているかや疑問を持てるか否か)が問題になるのです
第2層は、疑った事の答えを見つけ出す事です。
例えば、物事の理解が曖昧なのではないだろうか。
この答えで、この様な事に関心があるかないかや考えた事があるかないかが分かる。
第3層は、その答えを深堀する事です。
なぜ、物事の理解が曖昧なのかなどです。
私たちはこの深堀して考えないから物事の理解が表面的になってしまうのです。
第4層は、更に深堀するのです。
私たち物事の観方考え方は、どう言う見方考え方をしているのか調べるわけです。
関心や探求心がないとここまで深堀する事はできないと思います。
第5層は、4層で追求した事を冷静に見極める事です。
ここからは、比較するものがないと見極めはできなくなるので、普段から追求する様に考える、自ら物事の論理を解き明かしていなければ、できないかも知れません。
第6層は、論理的思考をしていない事に気づく事です。
このレベルで、この様な気づきができるのは、かなり考えている証で、ある程度の洞察力がないと気づけないかも知れません。
第7層は、論理的思考行っていないのでは、根拠が曖昧になる事を気づく事です。
6層で気づきがある様でしたら、この層も気づけるのではないでしょうか。
6層以降の気づきは、自然に気づくのではないでしょうか。
第8層は、根拠の曖昧な知識では、物事の判別や判断がいい加減になってしまう事に気づく事です。
第9層は、物事の判別や判断がいい加減では、物事を洞察できなくなる事に気づく事です。
ここで始めて洞察力と言うものに気づける訳です。
以上のような追求して考えないと、私たちの習慣から、洞察力がない事は引き出せないと思います。
あなた(御社)は何層の捉え方考え方をしていますか?私たちは、1層の疑問も持たないのではないでしょうか。普段行っているから正しいのだ、と思い込んでいませんか?
トヨタはなぜ、を5回繰り返すと聞きます。
現在の問題は高度化複雑化していますので、深層にある原因を見つけ出す為には、なぜ?も回数が必要になるのです。
私たちは上記した様な探求心がない為、又は不足している為、突き詰めて考える事をあまり行わないのです。
世の中の変化、特に目に観えない人の価値観の変化などは、その時々では見えてきません。
時系列で俯瞰的に観なければ価値観の変化や感情が引き起こす変化は見えてきません。
この事と合わせ技の様に、新たな変化、特に価値観の変化の様な深層にある変化は、自ら見つけ出すのではなく、主に米国の学者が見つけ出す事と思い込んでいる為、自分にはできない事と思い込んでいるので、考え様ともしないのではないでしょうか。
生まれた時から多くの方が、新たな知識を入手する事から始めます。
このこと自体は当然の事で、最初は比較する知識もないのでは、何も始まらないので、新たな知識を入手する事に全力を尽くすのは当然です。
だた、何時になっても周りの環境が、知識の量を重視する環境である為、途中からでも追求する様に考えても良いものが、周りの人達との競争関係上、何時になっても知識重視の考え方を続けてしまうのではないでしょうか。
その方が、濃密な人的ネットワークによる対面型コミュニケーションを重視する環境、感情が優先する人間関係に合っていて楽だからです。
周りの環境に負けて知識を得る事を重視して、考える事の重要性を疎かにする習慣が、人を考えなくしてしまうのではないだろうか。
考えること自体が少ない為、洞察力の様に非常に考えなければ得られない物には、気づけないのではないでしょうか。
又洞察ある事を見ても知っても、私たちにはそれが、洞察力が生み出す事なのかを判断できませんので、洞察力と言うものを意識する事もないものになってしまうのではないでしょうか。
生産性を上げるとは
質問力とは
〒400-0853
山梨県甲府市下小河原町
Mail tresor@eagle.ocn.ne.jp