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MIアイデア発想塾は、生産性を上げる為に、質問力、バランス・スコアカード、インストラクショナルデザイン等を知恵ある方法で賢く使い、企業力を強化する組織です。

生産性を上げるとは

無知の無知(不知)について

このページでは、私たちの考え方捉え方の大きな欠点だと思う、無知の無知について説明しています。

説明が長文になる為、読みずらくなるので、部分部分に注釈をつけました。
注釈の説明文をクリックすれば、その説明が出てきますのでご利用ください。
ただ、通して読んで頂いた方が、私たちの考え方捉え方の特徴が掴めるのではないでしょうか

無知の知 を追求しようと思った訳 無知の無知とはどんな事 無知の無知の状態である例
無知の無知を抜け出さなければならない理由とは 無知の無知の状態では知恵をだせない
無知の無知を抜け出す方法はあるのか なぜ長い間無知の無知状態なのか
無知の無知になり易い理由 意識してすると無意識でする事の差は 木を見て森を見ず
コミュニケーションの根底にあるものは 会議の仕方も影響しているのでは
なぜ意識をコントロールできないのか

「なぜ無知の無知を追求して考えようと思ったのか、その訳は?」

これから説明する事の意図は、全世界の平均的な生産性よりかなり上の、世界トップクラスの生産性を上げる国にしようと言う、ビジネスで行う事全てにおいて、世界トップクラスの高度な賢い知恵ある事ができる様にする事です。

日本の生産性を上げる為には、1つや2つの発見や技術開発、生産性を上げる取り組みをしても、トップクラスの生産性の高い国にはならないのが、今のグローバル市場です。

現在のグローバル市場を見渡して生産性を上げる為の知恵を使わないと、生産性を上げる事はできません。

私たちには過去に成功体験があり、成功体験に引きずられて、何時までも生産性が上がらない日々を送っています。

私たちの考え方捉え方を1から考え直す、ビジネスをリエンジニアリングする必要が出てきているのです。

私たちがリエンジニアリングと言う言葉を使う時は、違う視点でやり方手段を変える時に使う事が多いと思いますが、当組織の提案は、そのやり方手段の上位概念である、私たちの考え方捉え方を、1から考え直すと言う事です。

なぜなら、手段は既に色々な手をつくしてきているのに、生産性を上げる事ができない現実があるので、手段の上の事を考え行う、根本的な考え方捉え方まで変える必要を感じたからです。

考え方捉え方を、欧米並みに知恵ある方法に変えなければ、私たち日本の生産性は、上げる事ができないと思ったからです。

これから説明する事、説明する事に近い事は、御社も行っているかも知れません。

分かり易くする為に、極端に近い言い方をしている部分もありますが、1人ひとりの事を言っている訳ではなく、組織としての考えや行動としては、そうだ、と思う事を言っていると思います。

私たちには、欧米と比較して、そう言う傾向が強いので、こうなってしまうのではないか、と言いたいのです。

最初に、私たちが無知の無知、と言う、分からない事がある事を気づけない状態になり易い事を説明します。

説明する目的は、無知の無知、の状態であると、生産性を上げる様な、システム的に考えないとできない事が、できなくなってしまうからです。

無知の無知、の状態では、考えなければならない事や行わなければならない事を、考えない行わない事が起きてしまい、システム的に考え行動しなければ上げられない生産性を、上げる事ができないからです。

無知の無知、の状態では何も始まらないのです。

私たちは気づいていないので、悪いとは思っていないのですが、無知の無知、の状態では、生産性を上げると言う難しい問題を解決するには、どうにもならない状態なのです。

目的を持って行動する為には、罪深い状態なのです。

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「無知の無知とはどんな事」

私たちの物事の捉え方は、無知の無知と言う、分からない事がある事も気づかない捉え方をしていると思われる事が多々あります。

なぜ、そう思うかと言うと、私たちの知識の得方や考え方、日常の行動を見ていると、分からない事を知ろうと言う行動が、非常に少ないからです。

この現象が生まれる背景は、私たちに取って重要な事でも、意識もできない事があるからではないかと思います。

又、何が重要か、必要かを私たちは見分けられないからではないかと思います。

なぜ情報の良し悪しを判断できないかと言うと、自分で考えて判断基準を作るのではなく、情報を選ぶ基準を他人任せにしたりする為、高度な情報判断基準を持てないからです。

知ろうと思う時は、今噂になっているからとか、友人から刺激を行けた時とか、有名な人が言っているからや、人から命令される、依頼されるから知ろうとするので、自ら進んで探す様に知ろうとするのではなく、見た目や流行、雰囲気や他人からの依頼などで情報を知ろうとする事が多いからです。

情報入手の判断基準を、自分から選択するのではなく、外からの刺激に任せて選択しているからです。

又、私たちは、物事追求する様に考える事が殆どないので、人物事の本質や原因を、理解しない事が多いからです。

これらの事が起きる原因は、私たちが無知の無知、の状態だからだ、と言うのが、当組織の考えです。

当組織が日常業務で重要と思う、生産性を上げると言う難しくても重要な問題を提案しても、聞こうとしません。

聞かないのは、分かっているから聞かない事もありますが、当組織が質問しても答えられないのに、当組織に質問する訳でもなく無視される事が多いからです。

当組織は有名でない為、仮にあまり人が考えない様な重要な事を言っても、聞いて貰えない現実がある様に思います。

聞いて貰えない原因は、何が重要か?を判断できない私たちの物事の考え方捉え方が原因で、何が重要か?を判断できる様にするには、自ら物事を追求する様に考えて考える幅を広げる様にして、問題にしている無知の無知、状態を抜け出す考え方をする必要があります。

何が重要か?が判断できれば、現実に長い期間生産性を上げられない事実があるのですから、生産性に関する情報は、例え誰が言っても、聞く訳です。

それとも、企業活動の根幹的な事、生産性を上げる事であっても、無知の無知状態なのかも知れません。

意識した事もない他人事なのかも知れません。

もし、生産性を追求する事が他人事なら、企業活動の本質を全く分かっていない事になります。

最初に、私たちの習慣的な考え方や物事の捉え方が、無知の無知、の状態になり易い事を説明します。

無知の無知とは、知らない事があると言う事を知らない、分からない事がある事に気づかない状態の事を言い、具体的には、知っている事の先に何かがあるとは思わないので、知っている事の先を全く意識できない状態の事を言います。

違う例で無知の無知を説明してみます。

御社は、カラーバスをご存知だろうか。
例えば、今日一日、赤い色を探してみると考えたとします。

この意識を持つと、今まで気づかなかった街中の赤い色に気づく様になります。

なぜ、いつも見ている光景で気づかなかった事なのに、赤を意識すると気づく様になるのか。

これが、意識して見たり物事したりする事の力なのです。

意識すると、今まで見えなかったものが見える様になるのです。

無知の無知状態とは、意識する事もない、物事の見方捉え方になる訳です。

この説明から私たちの無知の無知、の状態を見ると、目に見えているものには意識があるが、目に見えない物事を支えている背後は意識がないと言う事です。

意識を持てない物事は、永遠に見えません。

なぜ、私たちが無知の無知状態になり易いかと言うと、以下の理由が考えられます。

〇 私たちの見方捉え方には、知っている事の先に何かがある、とは思わない文化や習慣がある。

〇 人物事を追求する様に考える習慣がない。見えているものが全てだと言う捉え方を、無意識に持っている。

〇 私たちの人物事に対する基本的な姿勢は、目に見える表面的な変化や違いに意識があり、変化や違いを気づいた時のみ考え行動する。
外からの刺激がきっかけで考え行動する、受け身の姿勢が主であって、自ら追求して考え行動する事のない態度が身についていて、自ら考え行動する気持ちが欠如している。
この行動スタイルは、無知の無知、を生み出し易い捉え方になる。

〇 重要な事で分からない事があっても、知ろうとしない。名のある人が言わないと聞く耳を持たない。

この裏側にあるものは、何が重要な情報か?を判断できない私たちの知識の持ち方と、目に見えている形でしか判断できない見方がある。

〇 知る事知識を得る事で私たちは満足してしまう。知識=できる事、と勘違いしているから生まれる。

繰り返し行う事で身につく事を、身につける方法を知るだけで、できる様になると思ってします。

この捉え方は、欧米でも陥り易い捉え方のようです。物事を浅く捉えているからかも知れません。

〇 意識して、考え方や捉え方を目的の方向に向け続けられない。

私たちが意識して見ているものは、目に見えている変化や違いに集中し、その他の事は無意識でいる為、目に見えないものは見ようとしない見方が習慣化している。見えないものを見ようとする意識が殆ど育たない見方をしている。

仮に無知の無知である事を理解できても、無知の無知を抜け出す為には、私たちの習慣を変える必要があるので、私たちが、変える意識を持続できなければ、習慣は変えられない事になる。

〇 私たちは、考える事をあまりしない為、私たちの知識は体制化されていない。

体制化されていない知識である為、入ってくる情報が精微化し難く、独立したチャンク化された知識となり易い。
チャンク化された知識は1つのまとまった完結した知識になり易いので、その先は意識しない事になる。

この記憶の仕方が、次に述べる、研修や講義の後に、質問をしない、できない事に繋がると思えます。

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「私たちが無知の無知、の状態である事を示す例」

私たちが無知の無知、状態である事を証明する様な事があります。

欧米で研修や講義を受けた人が、良く言う事です。

研修や講義の後で、研修や講義を受けた欧米の人は、講師によく質問をします。日本人は、殆ど質問をしません。

この違いはどこから生まれてくるかと言うと、欧米人と私たちの、記憶している知識に対する記憶の仕方と、考えている度合いの違いと言えます。

私たちは、講師のレクチャー(講師が発する知識)をチャンク化して記憶しようとするので、チャンク化した知識を得る事が目的で、研修や講義に参加しています。

チャン化して記憶してしまえば、その先はない、と捉えているのです。

私たちの習慣である、見えているもしか見ない見方と、同じ見方をしているのです。

無知の無知、の状態である事が分かります。

一方欧米の人は、受講者が既に持っている体制化された知識と、講師のレクチャーを精微化して記憶しようとしますので、講師のレクチャーを鵜呑みにするのではなく、受講者が解釈できる形に変える必要があります。

その為に、講師のレクチャーでチャンク化精微化できない事を質問して、自分の解釈に合わせたり、足りない知識を補ったりする事になるので、私たちより多くの質問が生まれ、質問をする訳です。欧米の人は、既知の無知の状態であるので、意識できる無知の部分を補う為、質問するのです。

※ チャンク化とは、意味のあるまとまりの事を言う。
    精微化とは、覚えようとする内容を、別の事柄に結びつける事を言う。
    体制化とは、記憶の内容を、何らかの基準で分類・整理する事を言う。

この説明で、無知の無知や既知の無知の状態を、理解し易くなったのではないでしょうか。

欧米の人は、私たちより物事を追求してよく考えているので、既に体制化された知識を多く持っていて、講師のレクチャーを精微化しようとするので質問が多く生まれるのです。

私たちは、物事を追求して考える事をしないので、知識はあるけれど、その知識が体制化されていないので、講師のレクチャーを鵜呑みにする方法しか取れないのです。その為、レクチャーをチャンク化する方法しか取れなく、精微化できないので、質問が生まれない、できないのです。

私たちが持っている知識は、体制化されていない知識が多い為、記憶している知識がチャンク化された知識となり易いです。

この事が、私たちが行う事がランダムになったり、システム思考ができなかったりする事に繋がるのではないでしょうか。

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「無知の無知を抜け出さなければならない理由とは」

私たちは、当組織の提案する習慣に変え、継続して行動できれば、世界トップクラスの生産性に成れる資質を持っていて、世界トップクラスの生産性にする事が、あながち無理な話ではない、と当組織では思っています。

又このままでいると、私たちは中進国になってしまうだけでなく、一生懸命働いても、ストレスを抱え、生活が殆ど良くならない、夢のない国になってしまいます。

私たち1人ひとりが持つ能力も生かせない、平凡な将来のない、知恵のない国になってしまう可能性が高いのです。

もう一つ無知の無知を抜け出さなければならない理由を知る訳があります。

この説明の目的である、無知の無知を脱出する為には、今までの習慣が残る中で、新たな習慣を身につける必要が出てきて、先輩たちが古い習慣を行う中で部下たちが新たな習慣を習得する事になります。

この環境の中で習慣を変える為には、上司が変われなくても、上司に新たな習慣を認めて貰う必要があります。

認めて貰った後、無知の無知、の状態を抜け出せる行動を私たちが取り、見本を見せる事で、無知の無知、を抜け出せる習慣が企業に根付く事ができます。今やる事が将来を開けるのです。

私たち日本は権力格差が大きい国です。経営者や上司は、長い間習慣で行ってきた事を変える事ができないし理解もし難いので、無知の無知を抜け出す行動を取れません。

目上の者ができない事は、認めないのです。

この事を考慮して、私たちでもできる解決策を、見つけ出さなければならないからです。

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「無知の無知の状態では、生産性を上げる様な知恵は出せない」

無知の無知、の状態であると、人は知っている先の事は知ろうとしなくなります。

なぜなら、現在知っている事で満足しているので知っている以上の事はない、と無意識に思っているからです。

現在の知識で満足している人は、私たちの様に、外からの刺激を受けないと更に知ろうと言う欲は生まれません。

その刺激も、過去に得た精微化体制化されていないチャンク化された知識でも分かる事と、私たちでも認識できる刺激である必要があります。

私たちは外からの刺激を頼りにする為、自ら考えて必要な知識を探す事をしないので、新たな知識を得るスピードが遅くなります。

又私たちの知識が精微化体制化されていな知識であるので、知識の積み重ねができ難く、なかなか高度な知識や知恵を持てる様にはなりません。

賢い判断ができる様になる為には、知識を上手く使い知恵に変え、その知恵が当たり前になって知識として定着し、新たに知識になった元知恵を、更に上手く使う事で知恵にして行く事を繰り返して、優れた知恵が生まれてきます。

この方法で知恵をつける為、知恵のある人は、年を経る事に知恵が深まって行く事が普通です。

と言う事は、知恵をつける方法で、企業経営を行えば、努力しているうちは、成長し続ける事ができると言う事です。

私たちが行っている知識重視の方法では、こうはいきません。

かつて私たちは、私たちの捉え方で、成功している経験があります。

私たちは、表面的な微妙な変化や違いを見分ける力が強く、私たちの捉え方の欠点を補う為、私たちには欧米が考えた知識に欲があり、当時としては国際的にも質の高い知識を多く持ち、決まった事頼まれたことを勤勉に正確に行う事ができます。

この特徴が、もの作りに生かされ、1970年代から80年代まで、世界で一番もの作りの競争力があり、大きな成果を上げる事ができました。

この成功が、私たちが従来から持っている、無知の無知、の状態を今まで保ったのではないだろうか。

従来から行っている方法でよい、と言う、間違った自信をもってしまったのではないだろうか。

私たちの捉え方は、上記した様に、どうしても無知の無知になり易い捉え方をしています。

しかし、私たちは無知の無知である為、生産性が上がらない原因を追究して考えようとはしないので、何時までも過去の成功体験を引きずり、自分を変えようとしないのではないだろうか。

私たちは、目に見えているものには対処できる力を持っていますので、現実を、それ程悪いとは思っていなく、徐々に国際競争力を無くしている事に、無知の無知状態である為気づかないと言うより、気づけないので、いたずらに時間を使ってしまったのではないだろうか。

他にも競争力を無くして行く事を気づけない理由があります。

私たちの見方は、見えているものに意識が集中する見方です。

徐々に変化するものや目に見えないわずかな変化を捉えならない見方をしています。

又、見方が狭い範囲にしか意識がないので海外と比較する事が殆どない事も理由です。
これらも、変化に気づかない理由だと思えます。

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「無知の無知を抜け出す方法はあるのか」

この状態を抜け出せる方法はあるのか?を問うと、難しいけれど方法はある、と当組織では思っていますが、その大事な話を、有名でない当組織が話しても、私たちは、知識は多く持っているのですが無知の無知である為、聞いて貰えません。

それでもこの状態を抜け出せる方法はないのか?と考えると、非常に難しい事である事が分かります。

なぜなら、私たちが無知の無知状態である為、自ら追求して気づく事はあり得ません。

有名な所が仮に、当組織の説を説いたとしても、物事を追求する様に考える習慣をつける必要があるので、習慣を変える意識を持続できない私たちには、難しい事になります。

現実的には自ら気づくか、物事追求する様に考える習慣をつける以外、無知の無知状態を脱出する事はできません。

無知の無知、の状態である私たちは、自ら気づく行動考えを取りません。

なぜなら、無知の無知、状態では、自ら進んで考えて知ろうとする事はありません。

外からの刺激には反応するのですが、当組織の説と同様な事を言う有名な所は、当組織の知る限りではいません。

ここでは詳しい説明は割愛しますが、当組織の説を分かっている人はいると思います。

しかし当組織が提案する事を広めようとすると、当組織が経験している無知の無知状態の私たちに会う事になります。

余程の努力をしない限り、努力に見合ったものは入らない事になります。

当組織が提唱している事を分かっている所で行動しないのは、これを避けているのではないかと思います。

無知の無知状態を脱出するには、どうすればよいだろうか?先ほどの研修の所で話した、欧米の人の状態、既知の無知の状態にすれば、分からない事は知ろうとするのではないだろうか。

既知の無知、つまり知らない事がある事を知っている、欧米人の様な捉え方をするには、どうすれば、よいだろうか。

なぜなら、既知の無知状態であれば、聞く耳は持てるからです。

あとは、物事を追求して考え、情報の良し悪しを判断できる様にすればよい事になります。

又、聞く耳を持ち、色々な事を聞いていれば、情報の良し悪しを判断できる様になるかも知れません。

人は、その人が知らない事を認識できれば、知ろうとするのが自然です。

既知の無知の状態で、知ろうとしないのは怠け者のする事で、怠け者では、企業経営や業務で結果を出せない事が普通です。

現在では、怠け者の経営者では結果を出せないし怠け者の社員を雇う企業はないと思います。

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「私たちはなぜ、無知の無知状態を長く続けているのか?」

長く生産性が上がらない状態でなぜ、私たちは、無知の無知、の状態を長く続けているのだろうか?

上記した理由の他に、私たちの習慣は、考えるのではなく知識を得る事を重視するからです。

なぜなら、知っていれば答えられ、人が評価するからです。

この私たちが得られる知識の中に、私たちができる生産性向上策がないのです。

私たちができる、生産性向上策を、誰も発表していないのです。

その理由は、私たちに習慣を変える事ができないと思っているのか、解決策が浮かばないのか分かりませんが、現実に、私たちの生産性は長期低迷になっています。

又権力格差の大きい日本では、物事を追求する考え方の習慣のない論理力に欠ける上司が、仮に物事を追求して生まれてくる部下が論理で通そうとしても、上司は受け入れないので、部下自身が追求する考え方をしなくなり、私たちのコミュニケーションは、無知の無知でやって行けるので、無知の無知を脱出できないのではないだろうか。

部下も、無知の無知は私たちの習慣であるので、幼いころから身につけているので変えられないのかも知れません。

経営者や上司が、外からの刺激を受け、問題を認識できた時に対処すればよい、と言う、従来の無知の無知、の行動を取っているので、無知の無知、の状態が維持されるのではないだろうか。

この習慣は、知る事が全てだ、と言う気持ちを私たちに培わせ、知ってしまえばその先はないのです。

知る事が目的で、何をできるかが目的になっていないのです。

知識を得る本来の目的を逸脱した事を、私たちは、何の疑いもなく受け入れているのです。

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「無知の無知になり易い理由とは」

無知の無知になってしまう原因は、私たちが行っている事や現在起きている事を、どう捉えているか?が影響しているのではないだろうか。

私たちの日常意識している事は、他人の目であり、日常行っている目に見える、習慣で行えるルーチンワークが主です。

日常の殆どを、無意識に思いつくまま考え行動している事が多く、意識してやり方を変える、違う目で見てみると言う様な、改めて意識しないとできない事は殆ど行いません、と言うよりできないのかも知れません。

私たちが意識している、と思っている事は、殆どの場合、現在行っている事に結びついた簡単に類推できるものや簡単に思いつく工夫ぐらいで、1から考えだす様な、改めて意識し直す様な領域の考えではありません。

意識し直して、根本から考え直す様な事は殆ど行わない、無意識に思いつくまま考えて行っていてもできる事です。

一から考え直す様な事ができていれば、長期の生産性低迷にはならなかった訳で、韓国に追い上げられる事もなかった訳です

又無知の無知であると、現在あるものや起きる事を、何の疑いも持たないで、無意識に受け入れてしまう事になります。

原因や本質を追求しないのですから、何の疑いもなく受け入れる以外の方法はないのかも知れません。

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「意識して行うのと無意識で行う事の違いは」

意識して考えるのと、無意識に思いつくまま考えることや、事実として無意識に物事を受け入れてしまう事の違いを説明します。

無意識に思いつくまま考え行動する事が殆どの私たちの考え行動を見ると分かると思います。

頭に自然に浮かぶ思いつくままに考えているのです。

考え方を変える様な事はなく、思いつくままで考えるので、考えて得られるものは、簡単に思いつく範囲か、知識としてあるものの類推の範囲を超えられません。

当組織が質問を多用する事を思いついたのも、思いつくまま考えていたのでは、物事の背後まで理解する様な事はできないと思ったからです。

質問を多用すれば、この習慣を根底から変えられると思ったからです。

私たちの方法では、目に見えているものから類推できるものや、簡単に考え付くものがアウトプットされるだけです。

私たちが習慣としている考え方は、深く掘り下げて考え新たな発見や、視点を変えて新たな気づきを得る事や、意識を変えて見なおす様なアウトプットが殆どない考えです。

この習慣的な考え方捉え方が、新たな付加価値を生み出す発想が、殆どできない事に繋がる事になります。

それに対して、意識して考えられる様になると、思いつくままではなく、例えば、問題を解決できない場合、別な角度から考え直し新たな気づき得る事や、新たな知識を得てもっと深く掘り下げて考える等ができます。

この様に意識をコントロールできるので、考える幅を格段に広げる事ができ、大きな成果をアウトプットできる事や、時間をずらして同じことを考える事ができ、物事を追い続けて考えられるので、知識の積み重ねができ新たな境地の事を考えられる様になります。

なぜ、こんな違いが生まれるかと言うと、意識して考えたり物事をできたりすると、やる事をコントロールできるので、自分の進みたい方向の事ができる様になるからです。

今まで習慣としていたものを変えるには、ある期間、変えると言う意識を持ち続ける必要があるのですが、多くの事を無意識に思いつくまま行う私たちには、ある期間意識を持ち続ける事ができない場合が多いのです。

ただ、意識は意志さえあれば、誰でも持てるものであるので、ある期間意識を持ち続け、習慣化する事に意義が出てくるのです。

習慣化すれば、意識を持ち続けなくても、無意識に習慣で1から考え直す様な事や、視点を変えて見る様な事ができる様になるからです。

無意識に物事を長く続けていると、自分のやっている事に仕方なく満足して、私たちの習慣的な捉え方である無知の無知、の状態になってしまうのではないだろうか。

私たちの大きな欠点は、私たちが無知の無知、の状態である為、物事を追求する様に考えないので、考えが広く深くなって行かない事と、得る知識が体制化されていないので、新たな知識を精微化できない為、知識の積み重ねができなくなり独自性が打ち出せない事と、高度な事を考えられない事にあります。

現在の世の中は、高度化複雑化多様化してきていますので、私たちの見方捉え方では、見えている所が表面的なものだけになります。

その為、原因や本質が見えないだけでなく、現存するものがどうして現存できるのか、や日常起きている事が、なぜ起きるのか等の物事の背後にある理由や関係性が理解できないので、物事を見通せないだけでなく適切な判断や行動ができなくなり、生産性を上げる事もできないのです。

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「木を見て森を見ず、をよくする私たちの見方」

私たち日本人は、識者がよく言う様に、木を見て森を見ず、の事を多くしている事と、本質を理解しない形の文化が多く残っています。

なぜ、この状態になってしまうのかを追求すると、私たちの物事の見方考え方が見えてきます。

私たちは、目に見える変化や違いのみを追う見方をしている事が分かります。

知識で言えば、知っているか知らないかが重要なのです。

適度の論理思考のできる人であれば、知っていれば誰でも分かる事を、問題にしているのです。

この見方しかできないのであれば、韓国や中国との違いも殆どなくなってきても不思議ではありません。

私たちの見方から言うと、木の表面的なわずかな違いをよく見て問題にしているのです。

その上、森を見ないのですから、俯瞰的に全体を見ないで行動する、と言う事です。

形の文化が多残るのは、原因や本質は隠れていて見えないからです。

私たちには原因や本質が分からないので、形の文化の評価判断ができないので、従来のやり方をそのまま残す以外方法はないからです。

これらを総合すると、私たちの見方は、目に見えるものはよく見るが、見えないものは追求しない見方をしている事が分かります。

今まで説明してきた事が、間違いではない事が分かります。

私たちには無知の無知、の人が多いです。

それは、目に見えるものだけを追いかけ、目に見えないものは意識にも上らない見方をしているからです。

色々な事を自ら追いかけて追求するのではなく、私たちは、待ちの姿勢で、外からの刺激に反応する行動を取っているのです。

外からの刺激がないと考えようともしないのです。

外からの刺激で目に見えないものがあると認識できた時だけ、どこからか、見えないものと思われるものを説明している知識を得る事で、問題解決をしようとするのが、私たちが行っている事です。

私たちの習慣は、見えているものが全てで、見えないものは追求しない見方をしている事が伝統になっている見方です。

この見方しかできないのでは、無知の無知、になっても仕方がないのではないだろうか。

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「根拠のない自信家がいる理由」

私たちに無知の無知、の人が多いので、私たちには根拠のない自信を持つ人が多い様に感じます。

なぜ、そう思うかと言うと、分からない事があれば、普通は人に聞く、調べる事をする訳です。

それを殆ど行わないと言う事は、自分で満足した自信であって他人が評価した自信ではありません。

あえて言うなら、たまたま人の上の地位に行けたので、それが自信となるのであって、実力で人の上に出られたわけではない、根拠のない自信である事が分かります。

この事に気づくと、日本企業には、年功序列だから、親から受け継いだから、有名な学歴があるからと言う理由で、経営者や上司になっている人が多い事に気づくのではないだろうか。

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「私たちのコミュニケーションの根底にあるものは」

私たちのコミュニケーションの原点は、私たちの状態が無知の無知、と言う、人を追求する事をしない状態である事を考慮すると、奥底にある本音の感情が人間関係を支配している様に思います。

上司が、同僚が、どう思っているかの感情が重要なのです。

なぜなら、質問して相手の感情や論理を知る事をしませんので、相手がどう考えているのかどう言う気持ちでいるかを掴めなく、それでも上手くコミュニケーションをとりたいと思うからです。

コミュニケーションを取る根底に流れている感情は、相手の感情を害さないコミュニケーション手段が主なものになるコミュニケーションです。

ビジネスに必要な、論理を基にしたコミュニケーションではないのです。

この根底に流れている感情も、本音と建て前を使い分ける事と質問をしない私たちの習慣から、殆ど分からない相手の感情を考慮したコミュニケーションになります。

その為、表面的な変化を探り、よく分からない相手の本音の感情を重視したコミュニケーションが主になるので、どう捉えられても言い訳ができる表現や、色々に取れる曖昧な表現が多くなるのです。

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「会議の仕方も無知の無知が関係しているのでは」

会議の仕方も無知の無知、が関係している様に思います。

私たちの会議は、報告は多いですが議論をあまり行いません。

議論をする目的は、相手が考えている事を探る事で合意点を見つけ出す事です。

私たちの習慣は、無知の無知である為、人の考えや感情を探る事をしないので、議論をあまり行わない習慣があります。

議論しても、質問をしない私たちは相手の本意を探れないので合意点を見つけ出せず、失敗に終わるので、議論を行うのではなく、根回しで議題を解決する事が多いのです。

この根回しの本質は、私たちのコミュニケーションを見れば分かる通り上司の気持ち、感情です。

権力格差が大きい日本では、上司がどう思うか、論理思考の苦手な上司が、議題に対してどう言う感情でいるかが、議題の方向を決めてししまいます。

これも、会議の本質を大きく離脱した、本質を追求しない私たちの判断が生む結果ではないだろうか。

私たちの行動は、思いつくままに行っている事が多く、意識して自分の行動を変える、習慣を変える事が苦手です。

無意識に行動する事が多いから変えられないのか、意識した行動がとれないから行動を変えられないのか分からないですが、私たちは、よいと分かっていても、自分の行動や考え方を変える事ができません。

この理由は結論から言うと、自分の意識をコントロールできない事が大きな原因です。

自分の意識をコントロールできないと、自分が思いつくままに考え行動する事が多くなり、論理力が培われないだけでなく、議論を上手くできないのかも知れません。

違う意見を、上手く取り込めないのかも知れません。

ストレスが多いのも、意識をコントロールできない事が関係しているのではないだろうか。

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「なぜ私たちは、自分の意識をコントロールできないのか」

私たちが無知の無知の状態であるので、メタ認知能力を持てない事が、大きな原因と考えられます。

メタ認知能力は、考える事を多くして、自ら気づく事で生まれてくる、自分に対する認識です。

反省や自分を良くしたいと思う欲や、他人との密な対話が生み出す、他人との比較や省察的な考えがメタ認知能力を作りだします。

無知の無知、の状態では考える事に深みが生まれないので、自分が自分を認識すると言う様な、深く考えないとできない事はできないのです。

メタ認知能力の様な、考えを熟達させなければ生まれないものは、無知の無知、では持てないのです。

自ら追求する様に考えを多くする中で、自ら自分の考えの特徴や他人との違いを見つけ出さないと、メタ認知能力は培えません。

これを私たちは行わなく、外からの刺激を受け、反応する形で刺激を受けるたびに考えたり行動したりするので、私たちの考えは、深くなって行かず、浅い見方になってしまうのです。

なぜなら、外からの刺激は、こちらでコントロールする事ができないので、その都度外からの刺激に、知識を得る方法で反応しなければならないので、じっくり物事を追求して深く広く考えられないからです。